--'--.--.--:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告:
トラックバック(-)
コメント(-)
2006'09.27.01:50
覚醒によってもたらされたのは、カーテンの隙間から降り来たる心地よい寒空の陽射しではなく……、
「ッ……」
頭痛だった。
「……」
──何?
身体を起こす。
伸びていた背を曲げるのではなく、その逆。
彼女は椅子に座り、テーブルに突っ伏すような形で眠っていた。
「ッ……」
それを認識した時に来たるは腰痛。
のみならず、身体の節々、関節という関節が痛み軋む。
「……」
──あぁ……。
気怠いを通り越して、このまま床に倒れたい衝動にさえ駆られる。
しかしそれより早く、この場の主と目が合った。
そして全てを思い出す。
ヌシの顔と、彼女を放置していった男の顔が、此岸の視覚と彼岸のそれとで微妙に重なり合う。
「……」
「……」
「……おはよう、マスター」
「閉店時間は過ぎている。……が、目覚の一杯を気付けにどうだ?」
想像しただけで胃が踊り出しそうになったので、彼女は頬を引きつらせながら毒づいた。
「いずれまた来るから……、その時、彼にやってあげて……」
その胸中は、淡くほのかな恋心のような復讐心で満たされていた。
クリスマスの翌日、敬虔なカソリックたる彼が言ってやれることはただ一つ。
「食物を選ぶように、ちょっとは罰も選んでやってくれ」
2006'09.14.01:57
現実空間と数学空間というのがあるけれど、現実空間寄りの数学空間というのがあって、実際に使う数学というのはソレだ、ということ。
純粋な数学空間というのは、全く純粋な論理操作でしかない、というのが出発点ですね。
だから、乗法で1を扱うことは、論理操作ではできない。
純粋な数学空間では解無しになるから、やっちゃいけない。
そもそも、=という、この便利な記号を排さなければ純粋に考えられないな、と。
結果は矢印であらわす。
つまり=ってのは、
2×3→6
6→2×3
これが成り立って、2×3=6と初めて書くことができるわけで、いきなり2×3=6は、純粋論理的にオカシイ。
さて問題の、1を扱う乗法。
12×1→12だとしましょうか。
そして、12→12×1だとしましょう。
この時、12×1=12が成り立ってしまう。
さて、するとどうなる。
12=12×1でもいいわけですよね。
12×1→(12×1)×1→{(12×1)×1}×1→………………
×1ってのは、現実的にも有り得ないことでしょう。
純粋な数学で考えても、有り得ないこと。
何故、n×1=nなんてことになるのか。
現実と数学の両空間が融合したところというのがあるんでしょうね、と。
そんな結論。
結局虚数だって、そこにあるわけで。
ゼロなんかもそうなのか〜?というのはまた別の課題。
数学専門の人達に怒られそうなほど、まったく門外漢のド素人な考察ですけれどね。
2006'08.13.23:00
我々は皆、美の奴隷である。
私はこう定立したい。
ここで云う美の奴隷とは、美を追い求め、美のためなら或る時は死さえも怖れない、そういうものである。
美のために死ぬことがまた美と考えられもする。
たとえそれが作られたものとはいえ、山鹿の武士道は我々の美意識と深く結びついていよう。
それは何も日本に限ったことではあるまい。
ヨーロッパ精神の源流たる、日本より遠く隔たった古代はギリシア。
テルモピレに於けるスパルタを思い起こすがよい。
ソクラテスなら無謀と云うかもしれないその玉砕は、当時の人々の賞讃するところとなっている。
美しく散れ!
惨たらしく生きるな!
美! 美! 美!
卑怯は美ではない!
謀略は美ではない!
侮辱は美ではない!
何かを軽んずるなら別の何かを重んじよ!
何かを疎んずるなら別の何かに親しむがよい!
それこそが美である。
〜台無しな幕間〜
メッチャ混んでたんですよ、ルーヴル。
何でこんなに人いんの?って。
上のは要はそういうことです。
〜幕間終了〜
そしてまた別の意味でも、美の奴隷である。
圧倒的なまでの美は、暴虐的ですらある。
完膚無きまでの美は、平伏さずにはいられない。
ミネルヴァ。
アフロディーテ。
彼女らを前にして、一体どんな男なら欲情できるのだろうか。
ただただその前に膝を付く想いしか湧きはしない。
ギリシア彫刻が美のイデアを具現したるものとするのは、誤りである。
それはヘルダーも指摘している如く、ギリシア美術を完全美術と見做すことと、本質的に同じである。
ギリシア美術は一民族の美術であるが故に、それが如何に完璧であるかのように見えたとしても、絶対的な人類美術ではない!
それと同じことで、イデアの具現たるには、ギリシア彫刻には原理的に不可能な点が二つある。
一つは、人の手によること。
一つは、此の世にあること。
イデアは人によっては認知し得ない。
また、イデアは可能存在でしかない。
美のイデアも例外に非ず。
すなわちイデアを具象化することは不可能である。
ギリシア彫刻は、確かに現実的な人間よりも断然イデア的である。
しかしギリシア彫刻は、イデアを目指しているという観点に於いては、全て不完全な失敗作である。
いかにミネルヴァが、アフロディーテが、アポロンが暴虐的な美で人の心を掻き乱そうと、それらはすべて神々の本来的な美の一部に過ぎない。
恐らくギリシア人達はそのことを理解していたに違いない。
だから、飽くことなく石を彫り続けた。
ディオゲネスが昼間に灯りを持って人間を捜し彷徨ったように、全てのギリシア彫刻家は美のイデアを探し彷徨い続けた。
やはりローマ人はギリシアの模倣に過ぎない。
ギリシア人のように、プラトンのイデア論など関係なく魂からイデアを求めていた人々とは違って、ローマ人はギリシア芸術に理想を求めてしまった。
ローマはギリシアをイデアの具現と勘違いしていた。
だから、レプリカから感じられる美は、たとえその製作年代が古かろうが、ギリシア人の手による彫刻とは雰囲気が異なる。
これもまた、美のイデアを求めたところに行き着かなかったという点で、全て不完全な失敗作である。
ただしかし、そうすると、完全な芸術というのは存在するのだろうか?
完全な美のイデアに限りなく近づいている芸術……。
そして話は循環する。
その美を求めて我々は奴隷的になる!
2006'07.30.21:22
「視覚は、美しい彫像を作り出さずに、こわしてしまう。彫像がその内に秘めている充実とふくらみというこよなく美しい本質を、まるで鏡に映ったような隅々を区切られた平板な像にすっかり変えてしまうなどということはありえないとすれば、視覚こそが強く働いてその彫像を、角ばった平面に変えてしまうのだ。従って視覚が、この芸術[彫像]の母親になるということは絶対にありえない。」(ヘルダー、登張正實訳「彫塑」登張正實編『ヘルダー ゲーテ』中央公論社、1979、P.214.)
1778年、今から228年も前にヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried Herder, 1744-1803)の書いたこの芸術論の核を、これほど強く実感したことはなかった。
ヘルダーは、ディドロの盲人論を下敷きに、絵画=視覚芸術/彫像=触覚芸術ということを主張する。
絵画と彫像の間に、視覚が媒介することは有り得ないという。
絵画は眼でるものであり、彫像は撫でるものである。
いくら彫像を多方向から見たところで、人間の両眼では疑似三次元としてしか捉え得ない。
部分をつなぎ合わせて全体を顕すことは、よく云われている通りここでも不可能である。
三次元的なものは三次元的なものを通してしか味わうことができない。
つまり絵画の鑑賞は眼により、彫像の鑑賞は手による。
カミーユ・クローデル(Camille Claudel, 1864-1943)の彫像はまさにその典型であろう。
上では彫像一般を述べたのであるが、別に触る気がしないものもあれば、触ることが畏れ多く感じられるものもある。
しかしカミーユ・クローデルの彫像は、それら両者ともに適合しない。
彼女が他と一線を画しているのは、その作品が「触られること」を、その場に居合わせる者に強く望んでくるということにある。
そう、作品を鑑賞しようとする者は、作品に望まれるのである……、触ることを、「私に触れなさい」と!
彼女の作品を前にしてそれに触れたくならない者は、鑑賞しようとしていないのではなかろうか……。
なるほど、その姿形はロダンを受け継いでいるし、ロダンを決して越えてなどはいないかもしれない。
背中を見ればロダンの傘の下にあることは一目瞭然である。
(背中を見れば生き様が分かると云われるように、ロダンの彫像も背中を見ればそれとすぐ分かる。)
しかし、ロダンが作品に、その内に鑑賞者を入り込ませないような薄膜を張っているのに対して、カミーユ・クローデルの作品は「魂」まで触れられたがっている。
ロダンが侵入者を許さないのに対して、カミーユ・クローデルは侵入を誘いさえする!
もちろん、ロダンが特別なのではない。
ロダンは近代彫刻に聳える不動の王者であると同時に、その点ではギリシア以来の伝統的彫像の遺産を精確に受け継いでいる。
ギリシア彫刻もまた、触られることを望んではいない。
(むしろギリシア彫刻は、触られることが当然という前提の産物だからである……、触られて当たり前の時代に生きていて、何故に改めて触れられたがったりするものだろうか?)
ルネサンス彫刻などは言うまでもあるまい。
(ギリシア彫刻と異なり、ルネサンス彫刻はルネサンス彫刻と一括りにしてしまうことは危険であるのだが……、しかしルネサンス彫刻には畏れ多いものが目立つことは間違いない。)
カミーユ・クローデルは間違いなくロダンの継承者である。
しかし彼女は、ロダン以上にギリシア彫刻に近いように思える。
(異論は多かろうが……、少なくとも、「触れる」ことに関しては。)
触れさせようとしない伝統を、彼女は内部から侵蝕している。
彼女の作品を鑑賞する者は、皆その手に作品を抱きたいと思うに違いない。
もしくは抱かれたいと思うに違いない。
これを女性芸術家と男性芸術家の違いと断じてしまうことは容易い。
母性の為す業か、女性性の為す業か。
しかし性差で何でも説明付けてしまっては、芸術は指の隙間からこぼれ落ちていくだけだ。
フィニほど不敵な胆力の持ち主でなかったカミーユ・クローデルは、結局はロダンとの男女関係で病むことになると一般的に説明されるのであるが、どのみち彼女は倒れていたように私には思える。
何故そう思うのか?
さて。
結局、作品に触れることのできない美術展であるので、その理由を知ることができないままに欲求不満を残して終わってしまった。
皮肉にも絵画芸術と彫刻芸術は、誤解を恐れずに云えば、こうも言えるだろう……、絵画=庶民芸術/彫刻=有産階級芸術、と。
(資本さえあれば、この現代でも彫刻に触れることは可能である!)
彫刻を見に行く時には、くれぐれも注意することだ。
特にカミーユ・クローデルの作品は、全くその真髄を味わうことができないのだから。
否、ヘルダーの如き者からしたら、作品を味わうことさえしていないだろう。
ちょうど、絢爛豪華な食事を前にしてお預けを喰らっているかのように。
とはいえ難しいことを忘れて視覚で楽しむことは勿論可能であるし、事実私も、良かったか否かと問われたら、即答で良かったと答えるものである。
しかしやはり、美味しい料理は味わいたいと思うのもまた事実であり、複雑な心境である。
2006'07.29.22:00
Nietzsche: Jenseits von Gut und Böse
Viertes Hauptstück: Sprüche und Zwischenspiele.
64.
"Die Erkenntniss um ihrer selbst willen" - das ist der letzte Fallstrick, den die Moral legt: damit verwickelt man sich noch einmal völlig in sie.
「知識そのもののための知識」……それは道徳倫理が仕掛ける究極の罠である……、すなわち、それによって、再び完全に、道徳倫理へと陥ってしまう。