2006'07.30.21:22
「視覚は、美しい彫像を作り出さずに、こわしてしまう。彫像がその内に秘めている充実とふくらみというこよなく美しい本質を、まるで鏡に映ったような隅々を区切られた平板な像にすっかり変えてしまうなどということはありえないとすれば、視覚こそが強く働いてその彫像を、角ばった平面に変えてしまうのだ。従って視覚が、この芸術[彫像]の母親になるということは絶対にありえない。」(ヘルダー、登張正實訳「彫塑」登張正實編『ヘルダー ゲーテ』中央公論社、1979、P.214.)
1778年、今から228年も前にヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried Herder, 1744-1803)の書いたこの芸術論の核を、これほど強く実感したことはなかった。
ヘルダーは、ディドロの盲人論を下敷きに、絵画=視覚芸術/彫像=触覚芸術ということを主張する。
絵画と彫像の間に、視覚が媒介することは有り得ないという。
絵画は眼でるものであり、彫像は撫でるものである。
いくら彫像を多方向から見たところで、人間の両眼では疑似三次元としてしか捉え得ない。
部分をつなぎ合わせて全体を顕すことは、よく云われている通りここでも不可能である。
三次元的なものは三次元的なものを通してしか味わうことができない。
つまり絵画の鑑賞は眼により、彫像の鑑賞は手による。
カミーユ・クローデル(Camille Claudel, 1864-1943)の彫像はまさにその典型であろう。
上では彫像一般を述べたのであるが、別に触る気がしないものもあれば、触ることが畏れ多く感じられるものもある。
しかしカミーユ・クローデルの彫像は、それら両者ともに適合しない。
彼女が他と一線を画しているのは、その作品が「触られること」を、その場に居合わせる者に強く望んでくるということにある。
そう、作品を鑑賞しようとする者は、作品に望まれるのである……、触ることを、「私に触れなさい」と!
彼女の作品を前にしてそれに触れたくならない者は、鑑賞しようとしていないのではなかろうか……。
なるほど、その姿形はロダンを受け継いでいるし、ロダンを決して越えてなどはいないかもしれない。
背中を見ればロダンの傘の下にあることは一目瞭然である。
(背中を見れば生き様が分かると云われるように、ロダンの彫像も背中を見ればそれとすぐ分かる。)
しかし、ロダンが作品に、その内に鑑賞者を入り込ませないような薄膜を張っているのに対して、カミーユ・クローデルの作品は「魂」まで触れられたがっている。
ロダンが侵入者を許さないのに対して、カミーユ・クローデルは侵入を誘いさえする!
もちろん、ロダンが特別なのではない。
ロダンは近代彫刻に聳える不動の王者であると同時に、その点ではギリシア以来の伝統的彫像の遺産を精確に受け継いでいる。
ギリシア彫刻もまた、触られることを望んではいない。
(むしろギリシア彫刻は、触られることが当然という前提の産物だからである……、触られて当たり前の時代に生きていて、何故に改めて触れられたがったりするものだろうか?)
ルネサンス彫刻などは言うまでもあるまい。
(ギリシア彫刻と異なり、ルネサンス彫刻はルネサンス彫刻と一括りにしてしまうことは危険であるのだが……、しかしルネサンス彫刻には畏れ多いものが目立つことは間違いない。)
カミーユ・クローデルは間違いなくロダンの継承者である。
しかし彼女は、ロダン以上にギリシア彫刻に近いように思える。
(異論は多かろうが……、少なくとも、「触れる」ことに関しては。)
触れさせようとしない伝統を、彼女は内部から侵蝕している。
彼女の作品を鑑賞する者は、皆その手に作品を抱きたいと思うに違いない。
もしくは抱かれたいと思うに違いない。
これを女性芸術家と男性芸術家の違いと断じてしまうことは容易い。
母性の為す業か、女性性の為す業か。
しかし性差で何でも説明付けてしまっては、芸術は指の隙間からこぼれ落ちていくだけだ。
フィニほど不敵な胆力の持ち主でなかったカミーユ・クローデルは、結局はロダンとの男女関係で病むことになると一般的に説明されるのであるが、どのみち彼女は倒れていたように私には思える。
何故そう思うのか?
さて。
結局、作品に触れることのできない美術展であるので、その理由を知ることができないままに欲求不満を残して終わってしまった。
皮肉にも絵画芸術と彫刻芸術は、誤解を恐れずに云えば、こうも言えるだろう……、絵画=庶民芸術/彫刻=有産階級芸術、と。
(資本さえあれば、この現代でも彫刻に触れることは可能である!)
彫刻を見に行く時には、くれぐれも注意することだ。
特にカミーユ・クローデルの作品は、全くその真髄を味わうことができないのだから。
否、ヘルダーの如き者からしたら、作品を味わうことさえしていないだろう。
ちょうど、絢爛豪華な食事を前にしてお預けを喰らっているかのように。
とはいえ難しいことを忘れて視覚で楽しむことは勿論可能であるし、事実私も、良かったか否かと問われたら、即答で良かったと答えるものである。
しかしやはり、美味しい料理は味わいたいと思うのもまた事実であり、複雑な心境である。
2006'07.29.22:00
Nietzsche: Jenseits von Gut und Böse
Viertes Hauptstück: Sprüche und Zwischenspiele.
64.
"Die Erkenntniss um ihrer selbst willen" - das ist der letzte Fallstrick, den die Moral legt: damit verwickelt man sich noch einmal völlig in sie.
「知識そのもののための知識」……それは道徳倫理が仕掛ける究極の罠である……、すなわち、それによって、再び完全に、道徳倫理へと陥ってしまう。
2006'07.25.22:28
「ところで砒素といえば、かのボルジア家の惨劇が思い出されるねえ」
「ああ……、あの泥沼一家……」
「どうしてチェーザレは砒素を好んで使用したと思う?」
「バレないからでしょう」
「いやいや……、彼はいたってその土地的な人間だったからだよ」
「……新大陸人と接触しすぎて、頭おかしくなった?」
「……かもしれない」
アメリカンジョークが分からない人のための解説
2006'07.09.23:02
ポー氏宅に足を運んだのは何度目のことか。
──指折りで数えられないほどまでには達していなかった気がする……。
マーガレットは呼び鈴を鳴らし、しばらく待つ。
返事が無いので、しばらくしてからノックを数回。
それから待つこと数十秒、慌ただしい足音とともに、開いた扉の中から落ち着いた佇まいの婦人が顔を出す。
「あ……、こんにちは」
マーガレットをすぐに視認したようで、扉を全開にしてから恭しくお辞儀をする。
警察相手だからであろうか、とマーガレットは思うものの、すぐにその考えを否定した。
彼女はきっと、誰に対してもこうであろう。
「ヴィクトリア朝」を体現しすぎていて、人によっては苦手とするくらいの範型をなしている。
「こんにちは。時間は大丈夫ですか?」
「はい。ちょうど暇をしていました」
いかにも薄幸という笑みを浮かべる婦人──ヴァージニア=ポー。
なるほど、人によっては苦手だろうけれど、もうまた別に、人によっては守ってあげたくなるタイプであろうことには違いない。
──……いや、そういう男の方が明らかに多いのよね。
男と対等に生きようとする道を選んだマーガレットには、色々と厭味を云ってくる連中が後を絶たない。
いや、今の表現は語弊であろう。
男と対等に生きようとしている、と解釈しているのは、その男達であって……、マーガレットからしたら、男と対等にも何もない。
性別主義信条身分……、何もかも関係なく、ただすべてを自分の力でねじ伏せてみたい……、そう思っているだけなのだ。
──……疲れる生き方だけれども。
ヴァージニアを見ていると守られる生き方の方が楽か……、とも思うが、しかし、彼女は彼女で辛い思いをしている。
夫エドガーに暴力を受け、堪え忍ぶことは……、反抗できないということは……、
──……私ならそっちの方が疲れるわね。
自分であれば、きっと途中で全てを投げ出して祖国にでも帰っていることだろう、と考えた。
そもそも死ぬまで付き合うなんて考えられないことであって……
──……?
ふとした違和感。
「どうかしましたか?」
きょとんとした表情で尋ねてくるヴァージニアを見て……
「あ……」
気づいた。
夢は……、夢の中でも夢であることに気づく時もある。
──……そう。
──私は……、
やめようか。
言葉にすると、抜け落ちることもある。
マーガレットは、自嘲気味に、ヴァージニアに応えた。
「あなたが、私の不安なんですね」
2006'07.07.23:45
「ただいま」
「お帰り。どうだった?」
「無事終わったよ」
「そうか、良かった」
「うん、ありがとう」
2006'07.05.22:42
──2002年。
何の目的があるわけでもなく、キアーヴェ=ファルコーネは休暇を貰いシチリアを出ていた。
パレルモから飛行機で一時間弱……、ローマの街は、以前来たときと変わらず、その空気に悠久を湛えていた。
道ゆく人びとがどんな者達であれ、街自体には何らの影響も及ぼさない。
──きっと無人だろうが、空気は同じだろうな。
そう思いながら煙草をポケットから出そうとして、キアーヴェはつい今しがた歩き煙草を注意されたことを思い出した。
なるほど、表通りは雑多ながらも健康的な面を主張したいらしい。
──少し裏に入れば、バゲリーアなんかとそんなに変わらねぇンだろうけどなァ……。
適当な路地を曲がり、少し歩いているとまた別の通りに出た。
歩きながら標識を仰ぎ見る。
クローチェ通り。
──……やっぱバゲリーアと違って、開けてるモンだな。
古き良き国際都市ローマと田舎町なんか較べるもんじゃないと反省しつつ、キアーヴェは煙草を手に取り……、また、諦めた。
口が寂しいものだと思ってポケットから紙幣を出し、何か美味そうなものでも買おうかと屋台を見歩いていると、時たま不自然にぶつかってこようとする少年に何度か遭遇する。
──ったく……。
溜息ついて相手にせず、慣れた調子で身躱し速度を落とさず歩き続ける。
──ま、コレばかりは何処の街だろうが変わらんモンか……。
しかしそうそう何度も挑戦されては、キアーヴェも黙ってはいられない。
クローチェ通りを抜けて、スペイン公園に着いたところで、今度は後ろからぶつかろうとしてきた少年の首根っこ捕まえて、軽く持ち上げる。
「っぅわッ!?」
「オイお前……、誰の金盗ろうとしてるかわかってンのか?」
「っ……」
軽くドスの利いた声を出してみせたら、少年は萎縮して震え上がってしまった。
キアーヴェは、そこまでするつもりは無かったと思いながら、やっぱり都会育ちのガキは違うモンだと痛感する。
「あー……、ちょっとそこ座ってろ。腹減ってねぇか? 美味いモン買ってきてやるよ」
「え、あ」
「逃げたら刺すからな」
そう言い残し、少年に背を向けキアーヴェは屋台散策に出た。
2006'07.01.23:40
Nietzsche: Jenseits von Gut und Böse
Viertes Hauptstück: Sprüche und Zwischenspiele.
63.
Wer von Grund aus Lehrer ist, nimmt alle Dinge nur in Bezug auf seine Schüler ernst, -sogar sich selbst.
完璧な教師というのは、真剣に、彼の生徒に関わるありとあらゆる物事を受け止める……、のみならず、己のことについてさえも。