2006'08.13.23:00

美とギリシア

 我々は皆、美の奴隷である。

 私はこう定立したい。

 ここで云う美の奴隷とは、美を追い求め、美のためなら或る時は死さえも怖れない、そういうものである。
 美のために死ぬことがまた美と考えられもする。
 たとえそれが作られたものとはいえ、山鹿の武士道は我々の美意識と深く結びついていよう。
 それは何も日本に限ったことではあるまい。
 ヨーロッパ精神の源流たる、日本より遠く隔たった古代はギリシア。
 テルモピレに於けるスパルタを思い起こすがよい。
 ソクラテスなら無謀と云うかもしれないその玉砕は、当時の人々の賞讃するところとなっている。

 美しく散れ!
 惨たらしく生きるな!
 美! 美! 美!

 卑怯は美ではない!
 謀略は美ではない!
 侮辱は美ではない!

 何かを軽んずるなら別の何かを重んじよ!
 何かを疎んずるなら別の何かに親しむがよい!
 それこそが美である。



〜台無しな幕間〜
 メッチャ混んでたんですよ、ルーヴル。
 何でこんなに人いんの?って。
 上のは要はそういうことです。
〜幕間終了〜



 そしてまた別の意味でも、美の奴隷である。
 圧倒的なまでの美は、暴虐的ですらある。
 完膚無きまでの美は、平伏さずにはいられない。

 ミネルヴァ。
 アフロディーテ。

 彼女らを前にして、一体どんな男なら欲情できるのだろうか。
 ただただその前に膝を付く想いしか湧きはしない。

 ギリシア彫刻が美のイデアを具現したるものとするのは、誤りである。
 それはヘルダーも指摘している如く、ギリシア美術を完全美術と見做すことと、本質的に同じである。
 ギリシア美術は一民族の美術であるが故に、それが如何に完璧であるかのように見えたとしても、絶対的な人類美術ではない!
 それと同じことで、イデアの具現たるには、ギリシア彫刻には原理的に不可能な点が二つある。

 一つは、人の手によること。
 一つは、此の世にあること。

 イデアは人によっては認知し得ない。
 また、イデアは可能存在でしかない。
 美のイデアも例外に非ず。
 すなわちイデアを具象化することは不可能である。

 ギリシア彫刻は、確かに現実的な人間よりも断然イデア的である。
 しかしギリシア彫刻は、イデアを目指しているという観点に於いては、全て不完全な失敗作である。
 いかにミネルヴァが、アフロディーテが、アポロンが暴虐的な美で人の心を掻き乱そうと、それらはすべて神々の本来的な美の一部に過ぎない。
 恐らくギリシア人達はそのことを理解していたに違いない。
 だから、飽くことなく石を彫り続けた。
 ディオゲネスが昼間に灯りを持って人間を捜し彷徨ったように、全てのギリシア彫刻家は美のイデアを探し彷徨い続けた。

 やはりローマ人はギリシアの模倣に過ぎない。
 ギリシア人のように、プラトンのイデア論など関係なく魂からイデアを求めていた人々とは違って、ローマ人はギリシア芸術に理想を求めてしまった。
 ローマはギリシアをイデアの具現と勘違いしていた。
 だから、レプリカから感じられる美は、たとえその製作年代が古かろうが、ギリシア人の手による彫刻とは雰囲気が異なる。
 これもまた、美のイデアを求めたところに行き着かなかったという点で、全て不完全な失敗作である。

 ただしかし、そうすると、完全な芸術というのは存在するのだろうか?
 完全な美のイデアに限りなく近づいている芸術……。

 そして話は循環する。
 その美を求めて我々は奴隷的になる!
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